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≪発掘前史 その1≫
土井ヶ浜から人骨が出ることは地元では以前からよく知られていました。古くは江戸時代に記録が残っています(防長風土注進案)。この骨は「元寇」の際の蒙古兵の遺骨と思われていました。昭和6年(1931)、地元の人が水車小屋建設用の資材として土井ヶ浜で大石を掘り出したところ人骨が出てきたので、驚いて神玉小学校訓導(旧制小学校の正規教員の称、今の教諭)の河野英男氏へ通報しました。河野氏は、箱式石棺内に6体の人骨が頭を東にして埋葬されていたことから、元寇よりも古い日本人の骨の可能性が強いとして、たまたま北浦調査に来訪していた旧制山口高校講師の小川五郎氏へ相談しました。小川氏は古墳時代の遺構ではないかと推測し、京都帝国大学医学部助手の三宅宗悦(みやけむねよし)氏へ連絡したところ、三宅氏の土井ヶ浜踏査が実現しました。河野氏から鑑定のために2個の頭蓋を託された三宅氏は、京都帝国大学医学部の清野謙次教授の膨大な資料(当時は弥生人骨の資料はなかった)をもとに研究をおこない、「長門國土井ヶ濱古墳人骨に就いて」を『防長史学』(第3巻1号)(昭和7年8月発行、防長史談会)へ掲載し、「古墳人骨としての多くの特徴を備えてゐる。」「土井ヶ濱古墳人骨が伝説の所謂「元」の骨ではなくもつともつと古い時代のものであり、本邦一般の古墳時代人骨の内に含まれるものである事を断言し得るのである。」と記載し、元寇時の人骨ではないことを明らかにしました。詳細な発表は他日人類学雑誌に譲るとしたのですが、三宅氏は昭和19年(1944)11月、フィリピン・レイテ島にて39歳で戦死しました。なお、この箱式石棺の位置は、第9次調査区内にあったものと思われます。
≪発掘前史 その2≫
昭和27年(1952)、神玉中学校教諭の衛藤和行氏は青年訓練所建設中に人骨が出ていることを女子生徒から聞き、人骨の中から貝製品を採集しました。これが後に永井昌文氏(九州大学医学部教授)によって「鞆」と推測されるゴホウラ製の異形貝製品です。衛藤氏は長府博物館に椿惣一館長を訪ね、この貝製品について相談し、企画展のために来館された九州大学助教授(文学部・考古学)の鏡山猛氏と助手の渡辺正気氏にみてもらったところ、鏡山氏は弥生時代の遺跡の可能性があるとして、弥生人骨の研究を開始した九州大学教授(医学部・解剖学)の金関丈夫氏へ連絡しました。金関氏は衛藤氏と連絡を取り、情報を収集、昭和28年10月6日から土井ヶ浜遺跡の発掘調査を開始しました。
土井ヶ浜遺跡の学術調査は1953年(昭和28年)に始まり、現在も続けられています。土井ヶ浜遺跡の発掘調査は、調査主体と時期によって、次の3期に整理することができます。 |
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| 1期 |
1953年(昭和28年)〜1957年(昭和32年) 第1次〜5次調査 |
| 2期 |
1980年(昭和55年)〜1992年(平成4年) 第6次〜12次調査
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| 3期 |
1994年(平成6年)〜2000年(平成12年) 第13次〜19次調査 |
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| 1期:1953年(昭和28年)〜1957年(昭和32年)(第1次〜5次調査) |
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土井ヶ浜遺跡の学術調査が開始されたのは1953年10月6日のことでした。埋葬姿勢を保った状態で最初に出土したのは『鵜を抱く女』と呼ばれている1号人骨です。この女性の左胸から鵜の骨が検出されました。男性骨と幼児骨が入った石棺や頭蓋のみの集骨などがこの1次調査で出土しました。発掘調査は10月26日まで続けられました。1次調査では期待したほどの量が得られなかったのですが、調査は翌年にもおこなわれることになりました。
第2次調査は1954年9月2日から12日まで、第3次調査は1955年9月7日から20日まで、第4次調査は1956年9月27日から10月8日まで、第5次調査は1957年8月1日から16日まで実施され、この間、多数の貝製装身具類や土器などともに207体の人骨が出土しました。
この期間の調査は九州大学医学部や日本考古学協会によっておこなわれました。
この5次に亘る発掘調査によって弥生時代の埋葬習俗や弥生人の形質が明らかになり、遺跡の重要性が高く評価され、1962年(昭和37年)に国史跡に指定されました。
また、金関丈夫氏は、土井ヶ浜遺跡から出土した弥生人骨の顔かたちが縄文人骨とは異なることを明らかにし、土井ヶ浜弥生人骨と三津永田弥生人骨の研究から、日本人の起源に関する仮説の一つである「渡来・混血説」を唱えました。
1959年(昭和34年)、土井ヶ浜考古館が建設され、遺物と人骨のそれぞれ一部が展示されていましたが、その後、土井ヶ浜遺跡そのものは放置された状態が続いていました。
土井ヶ浜遺跡の発掘調査(1次〜3次調査)に携わった坪井清足氏(奈良国立文化財研究所長)が土井ヶ浜遺跡を訪問、荒れた遺跡をみて、県教育委員会と豊北町へ遺跡の整備を進言しました。1978年(昭和53年度)度に豊北町は「史跡土井ヶ浜遺跡保存管理計画」を策定し、遺跡の保存整備に着手しました。 |
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| 2期:1980年(昭和55年)〜1992年(平成4年) (第6次〜12次調査) |
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土井ヶ浜遺跡やその周辺の整備が始まることになり、整備や遺跡の保存のための調査がおこなわれることになりました。
この期間の調査は豊北町が調査主体になって実施された調査です。
第7次調査では、土井ヶ浜遺跡では初めて縄文人的特徴を示す人骨(701号)が出土したり、ゴウホウラ製のペンダントなどが新たに出土し、従来とは違う墓域が確認され、埋葬地が西に延びていることが明らかになりました。 |
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| 3期:1994年(平成6年)〜2000年(平成12年) 第13次〜19次調査 |
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1993年(平成5年)に土井ヶ浜遺跡・人類学ミュージアムが開館しましたので、1994年からは人類学ミュージアムによって調査がおこなわれるようになりました。土井ヶ浜遺跡の埋葬地の範囲を確認するための計画的な学術調査が開始されました。第13次調査ではサルボウ製貝輪1個を左前腕に着装した完全な女性人骨が、第14次調査では伏臥の男性人骨(1406号)が、また、第16次調査では配石と盛り土をもち、小型壷が副葬された女性人骨(1601号)が出土しました。小型壷は弥生時代前期中葉のもので、これで土井ヶ浜での埋葬は弥生時代前期中葉までさかのぼることがわかりました。
発掘調査は第19次調査までおこなわれていますが、今後も遺跡の範囲を確定する調査などを継続していく予定です。
なお、2001年(平成13年)度から2005年(平成17年)度まで実施した圃場整備事業に伴う試掘調査や発掘調査によって、国道191号線より東側の南に開けた段丘から弥生土器が大量に出土したことからこの周辺地域に集落が存在することが予想されます。また、水田遺構の存在を示唆する遺跡(片瀬遺跡)も確認されています。
今後は、埋葬地の範囲を確定することと併せて、集落跡や水田遺構などの生活域の調査を含めて土井ヶ浜弥生人の全体像を解明するための研究調査をおこなっていく必要があります。 |
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